寺 宝
刺繍の涅槃図
専養寺には珍しい刺繍の涅槃図が残されています。この涅槃図は専養寺三世、以道和尚の時代に田村吉兵と浅田喜兵と名乗る刺繍師が専養寺に立ち寄り、当寺に涅槃図が無い事を知ると製作を願い出て、二間四間*¹の精舎*²を建てて三年もの間、毎日斎戒沐浴*³し制作したと伝わっています。
当寺の庇護者である野々垣久成を始め、多くの善男善女から寄進された金銀糸及び色糸を使用し大涅槃図を縫い上げられており、右に寛文拾壱(1671)辛亥暦十月十五日。左に濃州葉栗郡 円城山 専養寺と刺繍が施されています。
三枚目の写真は、江戸時代後期から明治時代に活躍した画家。蓑虫山人(1836-1900)が専養寺にて客人とともに、当時の住職より説明を受けているところを描いたものです。
随分痛みが激しくなっていた事から平成27年に修繕を行い。現在はパネルに入れ、庫裡にて展示しております。
*¹・・・一間は181.8cm
*²・・・精行者の住まい
*³・・・神聖な仕事を行う前に水を浴びる行為
マリア像と踏み絵
幕末の火災や濃尾震災時の倒壊に遭った専養寺ですが、御本尊、涅槃図と共に消失を免れた寺宝のひとつがマリア観音と踏み絵です。(右の一体は平成に入ってから寄進されました)
江戸幕府が行ったキリシタン弾圧により多くのキリシタンが捕らえられ、笠松の地で処刑されました。
専養寺に遺る踏み絵は江戸後期に当寺に預けられています。この事については、この地からキリシタンが居なくなったからだと考えられています。
日本各地に多く残っているマリア観音は慈母観音です。白磁の慈母観音に聖母マリアを投影し易かったからと言われていますが、専養寺のマリア観音は魚が入った駕籠を持つ魚籃観音となっています。
これはキリスト教がローマ帝国から迫害を受けた際、キリスト教徒が隠語として使用した魚のマークに由来します。
ギリシャ語で『神の子であるイエス・キリストは救世主です』の単語
ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ
の頭文字がΙΧΘΥΣ(イクトゥス)=魚 となり、十字架を掲げられなかったキリスト教徒が魚のマークを信者の証として持っていた事によります。
現在でも同じシンボルが使用されています。
また、マリア観音さまがご縁となって、令和元年には、一宮キリスト教会さまにご来寺いただき、ミサが行われました。
本尊:阿弥陀如来
幕末頃の火災によって、当寺の記録は全て焼失してしまい由緒は定かでありませんが、室町時代の作とされています。
韋駄天尊
伽藍を守る護法神とされ、韋駄天走りに代表される足の速い神としてお祀りされている事が多い佛様です。
養日参りの際にはマリア観音と並びお参りいただけます。
大黒天
専養寺の大黒様(通称:ハグ大黒)は元々信心深いお医者様が仏師に依頼し、ご自身の経営される病院のフロアに置かれてものです。
楠木の一木造りで、当時より診察にこられる方達が願いを叶えてくれると病気平癒や願掛けをしてハグしておられたそうです。高齢により病院を閉じられる事になった際に縁あって専養寺にお越しになられました。
現在でも来山された方々が、様々な想いを大黒様に願い、ハグされていかれます。
お陰様で病院にあった際の御利益はそのまま続いており、大黒様に会いにお越しになる方が増えています。
専養寺の大イチョウ
本堂裏のイチョウの木は元々三本あったそうですが、現在は一本のみとなっています。
イチョウの木は火災時に葉が燃えにくい事から、古来より近隣の火事から建物を守る為に多くの寺社仏閣の境内に植えられてきました。
資料が無い為に専養寺が建立される前からあったのか、建立した際に植えられたのかは不明ですが、江戸時代から、今の世まで時代を見守っています。
昭和63年(1988)に落雷に逢い、上部半分に空洞が出来てしまった為に、壊死した部分を切断し高さは半分になりました。落雷前の戦時中終盤には、背があまりに高いため、アメリカ軍の空爆の目印になるかもしれないと、伐採の対象になりましたが、伐採前に終戦を迎えたため、難を逃れました。
落雷後、まったくギンナンが出来なくなりましたが、令和を迎える頃から少しづつ実を付けるようになりました。
専養寺の大イチョウは笠松町の保護樹指定第一号となっています。